標語のようなもの(曹洞宗)

ある曹洞宗寺院で掲げられていたお言葉集です。

小さな努力で人は変わっていく

身につけた智慧は一生の宝もの
壁にぶつかったら まず初心に帰れ

この世の悩み苦しみは私達の頭の中で流し続けている“想い“が作り出しているのである

名もない花も実をのこす 命ある限り美しい花を咲かせよう!!
極楽に住んでいる自分に気づく自覚を!!

幸せとは分数のようなもの 分母が欲望で分子は満足

失敗しない人は立派 失敗から立ち上がる人はなお立派

自己は自己の運命開拓者なり

「空」とは調和 色即是空 「色」とは目で見える物の世界 空即是色 「空」とは眼に見えない心の世界

この一年 人の長所を見て過ごそう

彼岸 
彼岸が来る 人は名誉・財産を得ても心落ち着かず、安心の出来ないこともある 
人として真の落ち着きと安心を得られたことが彼岸に達したと言うのである

花が咲いている 精いっぱい咲いている 私達も精いっぱい生きよう

壁にぶつかったら まず初心に帰れ

寒い日があるから暖かい日がありがたい

本気
本気ですれば大抵のことが出来る 本気ですれば何でも面白い 
本気ですれば誰かが助けてくれる

咲いた花より咲かせた雨や土を見るべし

大才が怠けるより小才が努力する方が勝つ(大山名人)

受身 
柔道の基本は受身
受身とはころぶ練習まける練習 
人前でぶざまに恥をさらす稽古 
受身が身につけば達人 
まける尊さが分かるから

般若心経の意味
色即是空(形あるものはなくなる) 空即是色(次のものが用意されている)

雨の日 風の日があってこそ生涯豊かなり

余計なことは考えるな これが禅の教えです

なければないで苦しみ あればあるで苦しむ

あやまちは人生を決めない あやまちの後が人生を決める

若い時に汗を流さなかったら 年を重ねての涙になる

心そこにあらざれば 見えども見えず 聞けども聞けず

心が変われば態度が変わる 
態度が変われば習慣が変わる 
習慣が変われば人格が変わる 
人格が変われば人生が変わる

好悪を問わず 人に誠を尽くすこと

朝は希望に起き 昼は努力に生き 夜は感謝に眠る

莫妄想 済んでしまったことは忘れましょう。今できることに全力を尽くしましょう。

えらい人になるより ありがたい人になろう

教うるは 学ぶの半ば 「書経」より

愛語は愛心よりおこる 「正法眼蔵」より

おごるなよ 月の丸さもただ一夜

徒に過ごす月日は多けれど 道を求むる時ぞ少なき

思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。

とらわれないとは 握りしめないこと

咲くも無心 散るも無心 花は咲かず 今を生きる 坂村真民

出る月を待つべし 散る花を追うことなかれ

反省とは自分を責める事ではなく、自分をありのままに知ることである。

曹洞宗の参禅会で聞かれたこと

”修行と悟りとは同じである。修行している状態こそ悟りである。坐禅修行の姿そのものが仏・悟りである。これを修証一如(しゅしょういちにょ)という”

”坐禅が終わったら、坐禅のことは忘れていい” (後堂老師)。

“仏道とは物知りになることではない” (同じ後堂老師)。

“臨済宗は宗教ではあるが、仏教ではない。真言、天台、チベットなどの密教は仏教ではなく、密教である” (西嶋和夫老師門下のお弟子)

道元禅師のお言葉

私が曹洞宗のお寺で聞いた、道元禅師の言葉に以下のようなものが有る。

“葬式は仏道修行者のやることではない。神道に任せておけ”
“天皇や政治には関わるな”
“宗派の呼び名を立てるべきではない”

悟りを開いていると主張する曹洞宗の一派について

何故、こんなタイトルを付けているのかというと、現在の曹洞宗の主流は、故澤木興道老師を奉っており、澤木老師は、曹洞宗には悟っている者などおらん、と公言されていた方だからである。

井上義衍(いのうえぎえん)という老師の一派がそれである。井上義衍老師は故人ではあるが、そのお子さん(お弟子)が何人もおられ、「悟っている」を公言している。

現在YouTubeが盛んであるが、井上義衍老師の流れをひいた老師に、甲賀祐慈老師(耕月寺、静岡県三島市)という方がおられる。

信者の方がアップロードしておられるようだが、至極分かりやすい提唱だと思った。たくさんアップロードされており、このところ聞いているのだが、現在の曹洞宗の主流派(故澤木興道老師を奉る)のそれとはかなり違っていると思う。聞いたことのない方は必聴だろう。

ただ在家である今の自分には、澤木興道老師を掲げる派と悟り派のどちらが良いとも言えない。そこが歯がゆい点なのだが。これもまた迷いの一つなのかも知れぬ。

坐禅を身につけるには

一度はお寺で、然るべき師に指導を受けるべきである。

日本では、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗とあるが、坐禅指導に熱心なのは、曹洞宗、臨済宗であり、それぞれやり方が違うので注意が必要だ。さて、どちらを選ぶか、、これは結構肝心な分かれ道となるので、調査は必要。悟りを求めて坐る禅である臨済宗の方が意義は分かりやすいが、自分の場合は曹洞宗を選んだ。

ある程度、坐禅の様子が分かるようになれば(坐禅の最中に、”提唱” という講義のようなものもあるので)他の宗派の坐禅会に出てみることもいいだろう。本格的にやろうということになると、臨済宗だと公案を使うので、師との関係がより密接になる。その点、曹洞宗とは若干異なる。どの師についたかは、宗派によらず、後々大きな問題になっていく。

繰り返すが、自分勝手な坐り方は事故の元。坐禅における身体の使い方は習っておくべきであろう。

曹洞宗の場合、基本単位を一炷(いっちゅう)と言い、一本の線香が終わるまでの約40分間、坐る。10分程度の経行(きんひん、歩行禅)を挟んで、もう一炷坐るというのが通常の流れである。

曹洞宗の実態

曹洞宗の場合、本山が2つある。
宗務庁に問い合わせてみると、それなりの説明をしてくださる。自分の場合には、歴史的な経緯を説明された。しかしそれだけで納得できるであろうか。

というのも、実際の寺院へ赴くと、「自分は永平寺派であり、2つの本山など認めない」というご住職もおられるのである。この件については、過去ブログに書いた際に、横浜の総持寺派と覚しき方から文句が来たことがあるのだが、本当のことだから今回も書いておきたい。住職によって見解がバラバラというのも、参禅者にとっては困ることだ。

また、「我が宗派には悟りを開いた者などおらん」と言ったのは、故澤木興道老師という方だが、この老師を信奉されている方々が現在の主流である。が、悟りを開いたと称する派も一方で存在する。どちらの派にも坐禅会というものはあり、在家者の場合、そこは自由に参加できるのだが、同じ宗派でありながら、この2つの主張を聞かされることに矛盾に感じている禅者は多いと思う。

「ウチは分派していないから」と、臨済宗を半ば批判するような言説も聞かれるわけだが、実情は先に示したとおり。それぞれの派というものは、曹洞宗にも存在している。